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Memories of 75-85 畠山芳久・芝田満之・白谷敏夫 interview

畠山芳久(写真家・サーフィンジャーナリスト)

「サーフィン・ワールド」が創刊された時、編集長だった石井秀明さんは25歳。私は21歳。サーフィンに関わるすべての人たちみんなが若かった。それぞれが自分の可能性を信じて、思うまま進んでいけた。そんな時代だった。

世界的にみれば70年代後半はプロスポーツとしてのサーフィンが確立されていった時代。日本もその波に乗り遅れてはならない時代だった。そんな頃に写真を撮り始め、よく佐藤(傳次郎)君と一緒にどうしたら「SURFER」や「Surfing」に載っているような写真が撮れるのか、上がってきた自分達の写真を見ながら何時間も話し合っていたものだった。二人が水中で最初につかったニコノスでは、ファインダーだけが水面の上に出ていて、凄いショットを撮れたつもりでいても、レンズが水没していて、上がってきたのはぼやけた意味不明な写真になってしまうことがある。二人ともそれに悩まされていた。それに気づいたのは、水中からヒロミチを撮る私を佐藤君がすぐ横で撮った写真でだった。新婚ほやほやのヒロミチの家に夜明け前押しかけて、叩き起こして富士川に写真を撮りに行ったり、今思えば素晴らしいサーファーと波の中で遊ばさせてもらっていたような気さえする。79年に副編集長を兼任するようになってからの雑誌の編集も、台風の素晴らしい波の写真が撮れると、予定になくても大きな特集にしたり、すべては寄せる波のおもむくまま。自分達が思うがまま。とても自由にやっていた。ただ私達の雑誌は他誌との交流がまったく許されなかった。だからこの写真集まで、あの時代のサーフィン・フォトグラファーが同じステージでセッションをしたことはない。波という自然が与えくれる恵みをキャンバスにサーファーが描くライン、そして波こそがアート。写真はその記録だと私は思ってきた。でもそれはあくまでも私の考えだと、30年の時を経て実現したセッションが教えてくれた。

芝田満之(写真家)

最初Hawaiiに行ったが18の時(1974年)で、当時お決まりのライトニングボルトでジム・リチャードの7,4を買って6ヶ月、もう乗りまくった。2度目は3年後、いろいろあって今度は板の代わりにカメラを持ってノースショアへ。着いた日がマスターズのファイナルでそのまま泳いで撮影これが最初のノース、勝ったのはローリー・ラッセル。その当時のカメラマンって、ダン・マーケル、アート・ブリューワー、ジェフ・ディバイン、ワォーレン・ボルスターにオーストラリアのピーター・クロフォード、若手でアーロン・チャングとジエフ・ホームベーカー、日本からは佐藤弘(傳次郎)に「サーフィン・ワールド」の畠山芳久(ジッタ)みんな凄かった。

そんな感じでサーフィン写真にのめり込んで数年後、、、村瀬勝宏とメキシコを目指すことに。波がなかったらビール飲む、か吸う、か寝る。波があったら徹底的にサーフィンする。夜になると焚き火してギターなんか弾きだしちゃったりしてさ。「あっ、俺達本当のサーファーじゃん」って思ったよね。その時僕達は、メキシコ国境に近いエンスニータスという町にいた。立ち寄ったバーで同席したサム・ホークとメキシコの話に花を咲かせていると、サムの連れの男が話しかけてきた。「おまえら、メキシコに行きたいのか?俺が案内するから、明日出発しよう?」。そんな調子のいい話はないと用心しながらも、しばらく酒を飲み、「じゃあ明日!」と待ち合わせをして別れた。翌朝待ち合わせ場所に足を運ぶと、ホセがそこにいてそのまま旅の出ることになる。メキシコシティにほど近いグァダラハラという町に向かう。山岳部にあるシティは夜になると気温が下がり、バスのなかウエットに着替えて寒さをしのいだりした。さらにアカプルコに下り、プエルト・ペテカルコという町を目指す。結局、到着したのは5日目の昼。ビーチを見るとフラットだったが海は大きくうねっていた。旅の疲れとビールが心地よく眠りに誘いしばらく昼寝をしていると、ホセにたたき起こされる。そこには今まで見たことのないパーフェクトな波が次々とブレイクしていた。エヘが板をかかえ波に向かって走り出す!僕は夢中でシャッターを押し続けた!(サーフトリップジャーナル誌引用/文・富山英輔)

白谷敏夫(アートディレクター)

僕はこの本の頃サーフマガジンっていう辻堂の海の前にあった雑誌社のアートディレクターをしていた。編集部から波が見えてたからいつもサーファーがたむろってた。写真家、ライター、外国のサーファーや地方のローカルたち。仕事と言いながら波のいい時間にはみんなで海に浸かったりして。おかげでいろんな人たちと波乗りできた。
この本を見ると海が汚かった。今、人が増えたのに浜は少しきれいになったと思う。当時のサーファーは陸(おか)では嫌われていたけど、海をきれいにしたいって真剣に思って行動してたね。自分の車はゴミでいっぱい、浜には残さなかった。だれかにいわれたルールじゃなくて気持ちだったんだね。波乗り人間はかなり早い時代に地球を意識してたと思うよ。金はなかったけど尊敬できるかっこいい人種だった。
その頃僕が所属していた西海岸アドバタイジングという会社は、冬になると原宿の事務所からノースショアにみんなで移動した。クイリマに部屋を借り、波乗りしたりコンテストを見たり、見たこともないようなでかい波にただ笑っていた。波乗りしてれば就職できたいい会社だった。クライアントはメジャーなサーフィンブランドのほとんどだったし、裁判で商標を争っているブランドの両方の広告を作ってた事もあった。ホントに小さな世界だった。みんな仲間だったって感じかな。