JUN KUBOTA on SURF+ART
久保田 潤
Q1.サーフィンとの出会いは何歳の時ですか?場所と季節も教えてください。
久保田 21才のときに、初めての海外旅行でロサンゼルスに行って、一緒に行った友人のロスの同世代の親戚と、その仲間に連れて行ってもらいました。夏だったけど、水がとても冷たかった記憶。
Q2. サーフィンを始める前と後で、どのように作風や作品を作る上での気持ちに変化があったか?なかったか?ご自分ではどう思っていますか?
久保田 元々、僕の時代(1980年代前後)には美大のデザイン科出身者が(日比野克彦氏とかが)作品を発表するのが流行り始めていて、その流れで絵を描いていました。
コマーシャルフォト誌の玄光社が出している季刊イラストレーションというムックがあって、それに海外のイラストレーターが紹介されていて、そんなものの真似というか、なんとなく流行りっぽいものを描いたりしてました。波乗りの絵は全然描いてなかった。ゲイリー・パンターとか好きでした。
卒業して野又穫、土屋孝元(故人)と3人でやったグループ展(当時銀座にあったギャラリー21)では、手で描いたものをカラーコピーして、それをコラージュする、という作品を発表し、その後、マッキャンエリクソン社(当時)それからフリーのCMの企画やディレクターと、絵から離れ、波乗りは千葉や茨城にちょこちょこと行き、仕事が辛くなり、鎌倉に移住して、広告から離れて、波乗りの絵を描き始めた、という流れです。
波乗りをやりながら波乗りを描く、というのは完璧だ、とか、思ってました(笑)。
絵本「なみにのる」でも言っているのですが、ヒトはなぜ水の中では生きられないのに海に惹かれるのだろう、と、よく思うのです。海に入るようになってから、より、動物としての自分、を感じるようになったと思います。
Q3. 長年、鎌倉に生活の拠点をおいている一番の理由はなんですか?
久保田 海。波乗り。でも、最近、あまり入っていません。見に行って、入りたい、と思ったら入ります。
同時に、鎌倉も、泰介さんが言うように(人のことは言えないけれど)本当に移住組が増えていて、素朴さがどんどん失われているように感じてもいます。
Q4. 「なみにのる 」はどのような発想で生まれましたか?長年温めていたものですか?
久保田 「よあけ」と言う有名な絵本との出会いが大きいです。
海を描くからか、青い絵になりがちなのですが、画家としては色彩全体に関心があり、「よあけ」がその理想的な表現だと感じたことが大きいです。
色彩が語る、というのを試したかった、というか。
Q5. アーティストとしてサーフィンから得られるインスピレーションはどんなことですか?あれば具体的に教えてください。
久保田 海に入り、波乗りをする、という時間の過ごし方の中に、言語化できない領域があり、それが絵に現れる、と思っています。
Q6. 久保田さんの作品展では言葉が添えられてストーリー展開になっているものも多いのですが、このスタイルはいつからですか?言葉というのは久保田さんの作品の中でどんな位置にありますか?
久保田 表記言語と絵画は近い、とよく考えます。自分の絵画を鑑賞してもらう手立てとして言語を添える、ということが自分の絵画の個展の場合、とても重要だと思っています。
自分が他者の絵を見るときにもよく感じるのですが、その絵になかなか入れないことがあります。見ているようで見ていない、というか。
自分の絵を見てもらうための道筋を、自分の言葉でつけたい、と思うのです。
Q7. ご自分では海で過ごす好きな時間帯はありますか?
久保田 早めの午前と日没前。
Q8. どのくらいの頻度で海に行きますか?海でスケッチをすることはありますか?
久保田 散歩はよく行きます。スケッチもします。スケッチはシンプルすぎて、あとで見て何を描いたかわからないことがあります。(笑)
Q9. 今後、山や都会に移って制作するという選択肢はありますか?
久保田 都会はないです。山も、今のところはないです。
Q10. 今後も含め、作品の中で追求したいことはありますか?
久保田 絵画を描き続ける、というのが人生の目的です。「視覚」と「描く」ということの接点が絵画だと思っているので、視覚を絵画に置き換えるための数々の困難さに対する自分の回答を見出し続けたいです。そして、死を迎えられればな、と。